本日、5月の12日は33回目の私の誕生日。
語呂合わせだと「ゴイニー」みたいな意味のない言葉になる、数年に一度は母の日とかぶって母達に気を遣わねばならなくなる、なぜだか『ザリガニの日』に制定されている、私の誕生日5月12日。
でも、30代が見えてきたころからでしょうか。誕生日が近づくのが憂鬱になってきました。
それは、若くなくなるから…。

このたび33歳を迎えるにあたって、「じゃあ若いって、なんなのか?」について掘り下げ、考え方を変えてみました。
憂鬱な誕生日から、むちゃくちゃ嬉しいだけの誕生日へ。そんな考えにいたるまでのプロセスをまとめてみようと思います。
こんなモヤモヤをすっかり乗り越え、人生を謳歌している諸先輩の皆様におかれましては、「第二の思春期」であるアラサーを抜け出したばかりのこのひよっこの戯言を、生暖かい目で見守っていただけますと幸いです。
「若い」って何歳まで?
ものごころついたときには既に持っていた、「若い」「若くない」という尺度。
具体的には何歳が境目なのでしょうか?
しいて言うとすれば、一般的には20代中盤という雰囲気ではないかと思います。
でもこれは、あくまで人生全体で見たときの基準。職場の一歳しか違わない相手や、さらには小学生同士の間柄にまで。だれかと比べて「若い」「若くない」という判断の仕方が根付いていますよね…。
80代が平均年齢の村ではいつまでも60代が「最近の若い衆」のままであるように。もちろんそういうのもありますよね。

ちいさな子どもにだってしっかり染み付いている、ある種の呪いのような価値観。
年齢を重ねる、それは死に近づくことです。
人間という動物が無意識のもとに抱えている、本能的な恐怖。できれば日頃、目をそむけていたい問題です。
もしかしたらそんな本能から、時として「若さ」を羨望と嫉妬の入り混じった眼差しで見たり、若さを失うことへの焦燥感を抱いてしまうのかもしれません。

「若さ」は、希望にみちあふれて見えるから。
この日本では特にそういう傾向が強いと言われがちですが、そのへんは詳しくないので今回はとくに触れません。ごめんなさい。
若さ至上主義ってなんなん?
もしかしたら、そんなん気にしてるの、微妙なお年頃の私だけなのでしょうか。常日頃、あらゆるところで若さについて優劣が語られているような気がしてしまっているのですが…。
- 30代後半女優さんがまるで少女のよう
- それ若い子の間ではもう流行ってない
- いい歳してそのふるまいはみっともない
- もう若くないからそんな服は似合わない
- そんな歳から始めるのどうかと思う
たとえばこのように、「若さ持ち上げる機会多すぎ」ではないかと私は思うんです。まぁ反対に「この若造が」「ガキのくせに」なんて言われることもありますけどもね…どちらも、よく考えたらすごく表面的な判断ですよね。
そんな価値観の社会で生きていくうち、みんな無意識に「若い」「若くない」という尺度で人を蔑んだり自分を蔑んだりしてしまうようになるのではないでしょうか。
たとえみずから自虐ネタにしたとしても、本当のところでいい気持ちにはなっていないものです。

自分より歳上の相手にイラッとしてしまったときなんかに「チッ、ババアめ」などと心の中で悪態をついてしまったり。
年齢にそぐわないことをすれば、たちまち「イタイ」と後ろ指さされがちです。
でも本来、その場面に唐突に「若さ」という尺度が出てくるのが本当は不思議なことなのではないでしょうか。
たしかに見た目や体力など、身体的な「若さ」について、衰えはあります。でも、まるで「若ければ若いほどすばらしい」とでもいうような、この息苦しい感じ。私たちはみな自然と歳を重ねていくというのに。いつまでも実年齢に抗っていかなきゃいけない、この感じ。なんなのでしょうか。

歳を重ねたということは、さまざまな経験を積んできたということです。さまざまな日常の経験、それすべてが実績。劣化ではなく変化。そして、魅力にもなり得るもの。
歳をとるほどに涙もろくなるのも、そう。同じ悲しみを経験したことがあるからこそ、人の悲しみを理解できるのではないのでしょうか。
悪いことばかりではありません。
かくいう私も若さに甘えていました
あらためて、この記事では、「若い・若くないの基準をつきつけたい」のではなく、「若さ自体に価値を置く」ことへの疑問をつづっておきたいのです。
しかし。そんな私も、かつては若さに甘えていました…!

周りに歳上ばかりがいる頃って、なにをしても割と多めに見てもらえるし、年下というだけで割と可愛がってもらえるし、なにもしていなくても褒められることが多かったように思います。
でも、そのまま若さだけなくしたらどうなるか。
ずっと「若さ」に価値を置いてきてしまうと、人生の序盤でピークが終わってしまいます。もしくは、歳を重ねる自分を否定して「若さ」にしがみつき続けることになります。
だれしもいずれは若さをなくしていきます。本当は気にしなくたっていいはずなんです。すべての人が、生まれた瞬間から平等に歳をとっていくのだから、なにかと比較してみじめになる必要もありません。
そして、経験値は多ければ多いほどいい。何歳になってもどんどん積み上げることができる。
若いうちは今ある若さに価値を置き、若さをなくしたら自分を見失っていないでしょうか。そもそも、なぜそんなに「若さ」を基準にしてしまうのでしょうか?
33歳、やっぱめでたいわ

くどいようですが、私は本日まぎれもなく歳をとりました。33歳です。
これまで無駄に斜に構えて生きてきてしまったので、こんなに素直に自分の誕生日など祝おうと思ったことなんて一度もありませんでした。
むしろ「誕生日です」などと口にして、なにこいつ、祝ってほしいとか思ってんの?とか思われるのいやだな…ってことばかり気にしていました。
でも、今年はめちゃめちゃ祝いたい。セルフで。自分におめでとうと言ってあげたい。
もう、胸に「本日33歳になりました」と書いたバッジを付けて過ごしたいぐらい清々しい気持ちです。
年齢なんて、ただの数字。なにも恐れることはありません。
そして、たとえ誕生日になにも予定がなくても、めでたい。
たとえ誰一人祝ってくれなくてもめでたい。
自分の基準は自分が決めることなのです。

開き直り、といえばそうかもしれません…。
いきなり価値観を変えようとしたところで、それは居酒屋に行って帰ってきたときの匂いのように自分にもしっかりと染み付いてしまっており、今日から簡単に切り変えられるというものではありません。
でも、とらえかた次第でこんなにも気持ちが変わるのか、というのは私も33歳にして驚きなのです。
おすすめの誕生日の過ごし方
最後に、こんな役に立たないブログですが役に立たないブログなりに「おすすめの誕生日の過ごし方」を提案したいと思います。
ずばり、
「好きなものを食う」
これです!
でもこれって結構ベストな過ごし方なんじゃないかと思うんです。
実現するのにそんなに頑張らなくていい、時間もいらない、そこまでお金もいらない、自分の力だけで実現できる。
SNSなど見ていると、パーティーやプレゼンなどで華やかに誕生日を祝ってもらう人々を目にすることがあるかと思います。
めちゃくちゃ「おめでとう」メッセージをもらっている愛され人間を目にすることがあるかと思います。
でも私は言いたい。
自分の特別な日を、他人規準なんかで過ごしちゃだめだ。

祝ってくれる人の数、なんていう曖昧な数字で自分の幸福度を決めちゃいけない。そんなのまやかしだから。
たとえば、いつも祝われている人が祝われない誕生日を迎えたら、どう思うでしょうか。
愛され人間誕生日なのに祝われないなんて!
…と思ってしまうのではないでしょうか?
別に悪いことなど何も起こっていないというのに。
その点「好きなものを食う」ことを目的とした誕生日なら、大丈夫。食べ物は裏切りません!愛され人間でなくてもできます!好きな食べ物がコンビニ弁当ならそれでいいのです!
余談ですが、私の母は今年の春に膵炎を患ってしまいました。膵炎は再発する可能性の高い病気なので、なんでも食べたいものを食べることができません。おいしそうなケンタッキーのCMが流れると気がつかないぐらいほんの一瞬の間だけ、我が家に悲しみが広がります。家族としても辛いけど、本人がいちばん辛いと思います。
でも、そんな母のような人には、ぜひ食べ物以外の好きなものを存分に味わってほしい。ドラマでもアニメでもゲームでもアイドルの写真集でもいい、なんでもいい。
自分を喜ばせることを絶対にないがしろにしないでほしい。誕生日ぐらい自分を祝ってあげてほしい。
こんなに長い間、生きてこられたんだから。
知らんけど。
※2020年7月追記…母、なんでも食べられるようになりました!